フロイト最後の日記 1929〜1939 フロイト,S.(ジグムンド) (著) , ロンドン・フロイト記念館 (編) , 小林司 (訳)
第40回日本翻訳出版文化賞受賞
イェール大学歴史学教授ピーター・ゲイによる『フロイト 私たちの時代の一人の生きかた』(1988年)や歴史家ロナルド・クラークによる伝記などで存在だけがほのめかされていた、生涯最後の10年間をつづった『フロイト最後の日記』が遂に邦訳された。1992年に公開されたこの日記は、20世紀思想界の巨人、精神分析の創始者ジグムント・フロイト(1856〜1939)の内界がうかがえる第一級資料。
フロイトが1938年にかろうじて亡命したときのロンドンの住居が、現在ではフロイト記念館として公開されている。そこに展示中の皮表紙の薄いノートに、フロイト特有のゴシック体で書かれている最後の10年間の日記は、まるで判じ物で、何が記されているのか、読み取ることが著しく困難だった。それを記念館のモルナールさんが、その博識と手近にある資料とを駆使して解読したのが本書である。
解読には、精神分析運動の歴史とヨーロッパ現代史、フロイト家の人間関係を熟知していなければならない上に、英独仏その他の言語を使いこなせることが必須である。モルナールさんは、この難しい仕事を見事になしとげて、フロイトと精神分析運動の知られざる側面を明らかにしたばかりでなく、ウィーンにおけるユダヤ人差別や、ナチスによる弾圧の実態、フロイトの亡命の実情を初めて世界に伝えることに成功した。
思想界の巨人によるこの日記は、私たちがほとんど知らなかった現代史と思想史に新たな展望を与えるものであり、がんと闘いながら偉大な業績を残したフロイトの晩年の姿は私たちに勇気と希望とを与えてくれる。
秘蔵・未公開写真多数発表!
アメリカ版は、1931年当時のフロイトの写真を表紙に大きく扱い、352ページという大型本で、日本語版も同様に作られている。だが、肝腎のフロイトが残した日記(1929〜39)は、ドイツ語の単語を2、3、メモ的に並べただけの極めて短いもので、その写真版の対称ページの英訳と併せても40ページほどにしかすぎない。
たとえば1933年5月11日には「ベルリンの焼却」とある。これだけでは暗号のようで、何も分からないので、ロンドン・フロイト記念館館長代行のマイクル・モルナールさんがいたれり尽くせりの解説を15行加えて、フロイトの本がナチスの大学生により焚書にされ、「中世なら私が火あぶりになったのに著書だけで済んだ。何と進歩したことか」とフロイトが皮肉を言った、とコメントしている。
他の項目は、「人工口蓋の苦痛の始まり」(35年5月5日)「クリスマス 痛みの中で」(36年12月24日)「聴力を失う」(38年4月26日)「パリからの指示」(39年3月3日)など。手書きされたそれぞれの記入について、解説は全体で235ページに及び、さらに文献リストなどがつづく。この解説部分には350枚ほどの貴重な写真が含まれ、初公開のものも多い(著作権の問題で日本語版では写真の一部を割愛した)。
ロンドン・フロイト記念館はフロイトの旧宅を使って1986年7月に公開された。そこに秘蔵されている資料が惜しげもなくこの本の解説に使われている。ウィーンのフロイト博物館が資料を返してくれとかつて要求したときに娘のアンナが拒絶して保存した資料である。ウィーンでユダヤ人が迫害された苦い思い出がアンナにはあったのだろう。それらの思い出は、すべてこの日記に刻まれているのだ。
1938年3月13日、ヒトラーはオーストリアを併合した。何の罪もない人々が街頭で捕らえられてナチスの突撃隊の便所掃除をさせられ、大学教授たちは素手でヒトラーが通る道路を磨かされた。住宅に侵入したドイツ兵たちは女性の首飾りを引きちぎり、「ユダヤ人はベンチに座るべからず」という命令が公布された。工場や住宅や家具を没収し、すべてのユダヤ人をせん滅しようとしたナチスは、同年10月にまず5万人をオーストリアからポーランドの強制収容所へ移した。
1932年にフロイト伝を書いた友人シュテファン・ツヴァイクはすでに33年10月に身の危険を感じて英国に亡命し、フロイトの弟子だったブルーノ・ベッテルハイムはユダヤ人だというだけで38年に突然逮捕されてダッハウとブーヘンヴァルトの強制収容所に15か月間入れられた。ナチスによる、オーストリアにおけるユダヤ人迫害を被害者の立場で記録した点でも、この日録は貴重な文献といえよう。
こんなウィーンに踏みとどまっていた82歳のユダヤ人フロイトは、弟子の一人だったマリー・ボナパルト王女らに助けられて、38年6月4日にウィーンを脱出し、二日後に奇跡的にロンドンへ亡命することができた。船が沈没したのに助かったなどという「奇跡」は体験しなかったかもしれないが、この時期に、ユダヤ人がウィーンを出ることができたというだけで「奇跡」だったのである。米国政府の圧力や友人・弟子たちの支援があったからこそできた稀有な亡命であった。それにもかかわらず、かねてから手術を繰り返していた上顎ガンが次第に悪化し、最後の著作『モーゼと一神教』を残して、フロイトは1939年9月23 日に亡命先で他界した。
いま、私たちはこの偉大な人物のこのように波乱に富んだ最後の10年を、とりまく環境の激変と共に手にとるように見ることができるようになった。
「人生とは死の欲動に対する長期戦であり、私たちはこのような破壊的衝動を限界内に抑えるすべを学ばねばならぬ」とフロイトは書いたが、彼自身はどう闘ったのだろうか。この日記は、多数の人の公開日記のうちでも最も重要な、人類への遺産となるに違いない。(訳者・小林司)
著者プロフィール
フロイト,S.(ジグムンド)(1856年5月6日 – 1939年9月23日)フロイド,S.(ジグムンド)とも表記される。精神分析学の創始者。20世紀が生んだ重要な人物の一人である。モラビアに生まれ、ウィーン大学で医学を学び、臨床医になる。はじめヒステリー治療の研究を行なっていたが、1900年に無意識(本人が知らない隠れた心理)の過程がわれわれの考えや行動を決定すると論じた『夢判断』を発表する。これを契機にフロイトの名声が高まり、以後40年間著作物をつぎつぎに発表する。そのなかで第一次大戦後ごろから生命には生体を無機状態にする欲動、つまり「死の欲動」があるのではないかと思索しはじめ、『快感原則の彼岸』を発表。1923年にガンと診断され、以後自分の死と闘いつつ、1938年にナチスから逃れるためイギリスに亡命。1939年に死去。その最後の10年間の内界がうかがえる第一級資料として『フロイト最後の日記 1929〜1939』(日本教文社)がある。 1902年から死の前年までウィーン大学神経病教授をつとめる。精神分析学、深層心理学、精神療法の理論的体型の基礎を築いた。無意識の世界、エゴ、リビドー、夢分析、エディプス・コンプレックスなどの概念・手法を創出し、その後の心理学・精神医学のみならず、政治、経済、教育、芸術など多方面にも大きな影響を及ぼす。『夢判断』(1900)『精神分析入門』(1920)は彼の代表作である。著作は『フロイド選集』(全17巻,書籍版〈4巻のみ〉またはオンデマンド版〈全巻〉、日本教文社)『フロイト著作集』(全 11巻,人文書院)等がある。 |
小林司1929年、弘前市に生まれる。1959年東京大学大学院博士課程修了、医学博士、精神科医、作家、シャーロッキアン。もと上智大学カウンセリング研究所教授、現在はメンタルヘルス国際情報センター所長。著訳書115冊。 |
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